エンジニアとして30年近く現場に立ち続けていると、ある種の「職人芸」のような感覚が身についてきます。
「この設計は、半年後に必ずパフォーマンスの壁にぶつかる」 「このタイミングで顧客に釘を刺しておかないと、要件定義が無限に膨張する」 こうした、言葉にするのは難しいけれど、体感として正解がわかる「暗黙知」の集積です。
しかし、この貴重な知恵は、あなたの頭の中に眠らせたままでは、あなたが現場を離れた瞬間に消えてしまう「一過性の労働」で終わってしまいます。
これからのベテランエンジニアに求められるのは、自分の経験を誰にでも使える形に変換する「言語化による資産化」です。
1.「背中を見て覚えろ」が招く組織の硬直化

かつては、ベテランの横に座り、その仕事ぶりを見て技を盗むのが当たり前でした。
しかし、開発環境が複雑化し、リモートワークも定着した現代において、そのスタイルはあまりに非効率であり、組織にとってのリスクにさえなり得ます。
ベテランが「感覚」で問題を解決し続けていると、若手にはそのプロセスが見えません。
結果として、「あの人がいないとプロジェクトが回らない」という属人化の極致が生まれます。
これは一見、自分の首位を保っているように見えますが、実際にはあなた自身を現場の細かなトラブル対応に縛り付け、より高度な意思決定に時間を使うチャンスを奪っているのです。
最新技術の習得スピードにおいて、若手と競い続けるのは限界があります。
しかし、彼らにない私たちの最大の武器は、「なぜその判断をしたのか」という膨大な失敗と成功のデータセットです。
このデータを「なんとなくの感覚」から「論理的な言葉」に変換して提供することこそが、ベテランならではの生存戦略になります。
2.「言語化」がベテランにもたらす3つの真の価値

経験を言葉にして残すことは、周囲のためだけではありません。自分自身の市場価値を劇的にアップデートする行為でもあります。
① 「自分」というボトルネックからの解放
あなたがもし、後輩から何度も同じような質問を受けているなら、それは「資産化」ができていない証拠です。
知恵をドキュメント化し、共通の「思考プロトコル」として展開できれば、あなたが寝ている間も、休暇を取っている間も、チームはあなたの分身として自走し始めます。
② 評価軸の転換:Playerから「Architect」へ
「一人の有能な作業者」としての評価は、年齢とともに「いつまで現場で戦えるのか」という減点法にさらされます。
しかし、「個人の知見を組織の知能へと体系化できる人材」は、替えが利きません。あなたの価値を、コードの行数から「組織の成功率」へとスライドさせる。これが言語化の真骨頂です。
③ 「自意識のデバッグ」と直感の再構成
「なぜ自分はそう思ったのか」を無理にでも書き出してみると、意外な論理の飛躍や、実は古い常識に縛られていた自分に気づくことがあります。
言語化は、自分の判断基準を最新の状態にアップデートするための、内省という名のデバッグ作業なのです。
3.具体的に「何を」言葉に変えるべきか:3つの実践的アプローチ

では、私たちが持つ膨大な「暗黙知」のうち、具体的に何を言葉に変えていくべきでしょうか。私が日々、現場で意識しているのは、単なる情報の伝達ではなく、「思考のプロセスそのものの資産化」です。
「嫌な予感」を論理的なリスク報告へ因数分解する
ベテランがよく口にする「なんとなく嫌な予感がする」という言葉。これこそが、言語化すべき最も価値のある知恵の原石です。
しかし、若手や顧客に対して「経験上、危ない気がする」と言うだけでは、ただの老害の独り言として片付けられてしまいかねません。
ここで必要なのは、直感を「因数分解」することです。
例えば、「過去の〇〇プロジェクトにおいて、今回と同様のDB設計を採用した結果、リリース半年後にデッドロックが頻発し、サービス停止に追い込まれた。
今回の要件は当時よりも参照頻度が1.5倍高く、書き込み処理が集中するバッチ処理の時間帯と重なっている。ゆえに、今このタイミングでインデックス設計を根本から見直すべきだ」
ここまで具体的に、「過去の事実」「今回の変数」「予測される結果」を論理的に繋げて初めて、あなたの直感はチームを救う「最強の防波堤」へと昇華されます。
結論ではなく「意思決定のプロセス」を残す
設計書や仕様書には、通常「結論」しか残りません。しかし、後進のエンジニアが本当に知りたいのは、「なぜその結論に至り、何をあえて捨てたのか」という葛藤の跡です。
私はドキュメントの端々に、あえて意思決定のログを残すようにしています。
「A案は実装スピードは最速だが、将来的なマルチテナント化に対応できない。C案は理想的だが、今回の納期と予算を200%超過する。ゆえに、現在はB案を採用しつつ、将来の拡張に備えてインターフェース層だけは抽象化しておくという妥協点を探った」
この「あえて捨てた選択肢」と「選んだ理由」を残しておくことで、数年後に改修を担当するエンジニアは、迷うことなく正しい判断を下せます。これこそが、時間が経つほど価値が増す「知恵の資産」です。
失敗に「名前」をつけてパターン化する
30年も現場にいれば、似たような失敗を何度も目にします。私はこうした繰り返される失敗に、あえて名前をつけるようにしています。
例えば、顧客の「とりあえず、いい感じにやっといて」という言葉を安易に受けてしまい、要件が雪だるま式に膨らんでいく現象を、私は『スノーボール・要件定義』と呼んでいます。
単に「要件定義は慎重に」と言うよりも、「今、スノーボール現象が起き始めています。一度立ち止まって範囲を固定しましょう」と名前を出して伝える方が、チーム内での共通認識が圧倒的に速く形成されます。
失敗をパターン化し、名前を与える。これもまた、ベテランにしかできない高度な言語化技術です。
4.ベテランが陥る「言語化の罠」をどう回避するか

ただし、言語化を始める際に私たちが肝に銘じておくべきことがあります。それは、私たちの言葉が、若手にとっての「重圧」や「説教」になってしまわないか、という点です。
「正解」を押し付けず、視点を提供する
「俺の若い頃はこうだった」「これが正解だ」という言い方は、若手の思考を停止させます。私たちが提供すべきは正解ではなく、「判断するための視点」です。
「今のモダンな開発手法なら、君の言うA案も一理ある。ただ、運用の観点から見ると〇〇というリスクが懸念されるが、君はどう考える?」
このように、対話のきっかけとしての言語化を意識することで、彼らの成長を阻害することなく、ベテランの知見を注入することができます。
「わからない」という事実も言語化する
熟練者であっても、AIや最新のクラウドネイティブな技術スタックに対しては、常に「生徒」であるべきです。
ここで「ベテランのプライド」を守るために知ったかぶりをするのではなく、「この技術要素については私にとっても未知数だ。だからこそ、まずプロトタイプで検証が必要だと思う」と、「未知のリスクへの向き合い方」そのものを言語化して見せるのです。
その誠実な姿勢こそが、結果としてチームの信頼を勝ち取り、現場に「凪」をもたらします。
5.結び:エンジニアとしての終盤戦を「資産」で満たす

私たちのキャリア30年は、決して平坦な道ではありませんでした。無数のバグに悩み、深夜のデータセンターで頭を抱え、納期という怪物と戦い続けてきた。
その日々の中で培われた知恵は、あなた一人の胸に秘めておくには、あまりにも勿体ない宝物です。
コードを書く手を少し休め、キーボードを叩く音を「思考の整理」へと振り向けてみる。 自分の経験を言葉にし、自分がいなくても回る現場をデザインしていく。
一見、地味で、時間のかかる作業に見えるかもしれません。
しかし、自分の経験が「誰かの地図」になり、それによってチームが救われ、結果としてプロジェクトの利益率が向上していく様を目の当たりにしたとき、あなたはかつて最新のコードを書き上げた時以上の、深い充足感を得るはずです。
「30年やってきて、本当によかった」
そう思えるエンジニア人生の後半戦にするために。今日から、あなたの頭の中にある「目に見えない資産」を、言葉という形にして未来へ繋いでいきましょう。
その言葉こそが、あなた自身の市場価値を永遠に支え続ける、最強の盾となるのですから。

