1.華やかな「表」の数字と、惨めな「裏」の現実

「数億円のプロジェクトを動かしているのに、なぜ、たった数枚の答案用紙に正解できないのか」
帰宅途中の電車の中、私は何度この自問自答を繰り返しただろう。
私のキャリアの根っこは、泥臭い開発現場にある。
かつては一人の作業者として、技術スキルを磨き、ソースコードと格闘し、成果を積み上げることで居場所を作ってきた。そんな現場叩き上げの私が、今はPMとして年間売上数億円の案件を統括し、高利益を出し、20人以上のメンバーに指示を出す立場にいる。
ようやく最近になって「自分は、サラリーマンという枠の中で、それなりにやれているのかもしれない」と、おぼろげながら思えるようになってきた。
けれど、その自信は、試験の合格発表があるたびに脆くも崩れ去る。
現場でいくら数億の数字を動かそうとも、手元に届くのは「不合格」という無機質な宣告。
高度資格という「免状」を持たない自分。(それどころか応用情報すらもっていない自分)
同僚や後輩が合格の報告を交わす中で、一人静かに合格発表の画面を閉じる惨めさ。
その瞬間、積み上げてきた実績も、開発者として培ってきたプライドも、すべてが「たった一回の試験」に否定されたような錯覚に陥るのだ。
私はプロフェッショナルではなく、ただの「要領の悪い中年」なのではないか。そんな激しい自己嫌悪が、私を支配する。
数億円を動かす「実績」と、不合格が並ぶ「資格」。 この二つの間にある、あまりにも深すぎる溝。
なぜ、実力はあるはずなのに、私はこの「壁」を越えられないのか。 その答えを探すうちに、私は自分を縛り付けていた「呪縛」の正体に気づき始めた。
2.「資格がない=無能」という呪縛の正体

なぜ私は、これほどまでに「資格」というラベルに執着し、自らを追い詰めてしまったのか。
その正体は、私の中に根深く横たわっていた「他人の物差し」への過剰な依存だった。
私は元来、周囲の期待や組織のルールに敏感に反応してしまう気質(HSP)を持っている。
会社が「高度資格を持つ者が優秀である」という基準を提示すれば、それを疑うことなく「絶対的な正解」として自分の中にインストールしてしまった。
すると、恐ろしい現象が起きる。
数億円のプロジェクトを無事に完遂させても、クライアントから感謝の言葉をもらっても、心の中の「検察官」がこう囁くのだ。
「でも、君は情報処理試験に落ちているじゃないか。それは本物の実力ではなく、たまたま運が良かっただけだ」
どんなに大きな実績を積み上げても、資格という「最後の一片(ピース)」が欠けているだけで、完成したはずのパズルをすべてぶち壊してしまう。
「100点でないものは、0点と同じである」。
そんな極端な認知の歪みが、私の首を絞め続けていた。
私にとって資格は、もはや知識を得るための手段ではなく、自分の「無能感」を打ち消すための、縋(すが)るようなお守りになっていた。
その呪縛の中にいる限り、現場でどれほど賞賛されても、私の心に本当の安らぎが訪れることはなかった。
すでに資格を持っている人の方が能力が高いと思い続け、後輩や同僚が合格するたびに追い越されたと思い込み、年2回のイベントごとのように自分を攻め続ける。
そんな自分が惨めで仕方がなく、合格できるまわりに嫉妬を覚えて苦悩し続けることをシステムエンジニアとしてのキャリアを30年近く積み上げてしまった。
しかし、ある時ふと立ち止まって考えたのだ。
「30年もこの業界の最前線で生き残り、数億円もの案件を回せている人間が、本当に『無能』なのだろうか?」
もちろん、世の中には試験を難なくパスし、同時に数億円のプロジェクトを回す「超人」もいる。私の上司がまさにそうだ。彼らと自分を比べれば、「脳の違い」などという言葉は、ただの負け惜しみに聞こえるかもしれない。
しかし、一つだけ自分に対して残酷なまでに正直に問いかけてみた。
「私の脳のリソースは、今、どこに注がれているのか?」
現場のPMは、想定外のトラブル、メンバーのメンタルケア、クライアントとのタフな交渉……それらに脳の大部分を占拠されている。さらに私の場合、一人で何人分もの実務をこなし、現場の最前線で「泥臭い解決」まで担ってきた。
試験勉強とは「静的な論理」をなぞる作業だが、現場は「動的な混沌」を整理する作業だ。
私はこの数年間、自分の脳の100%を、目の前の「4億円の現実」を救うために使い切ってしまった。 試験用の「静的な脳」を動かす余白など、1ミリも残っていなかったのだ。
そう気づいたとき、私は自分自身に対して、これまでにない「赦し」のような感情を抱いた。
「資格がないこと」を嘆く必要などなかった。
私はただ、自分のすべてを現場に捧げてきただけなのだ。
では、その「捧げてきたもの」から得られた、本当の報酬とは何だったのか。資格という壁を越えた先にある「プロとしての自負」を、私はもう一度定義し直すことにした。
3.試験勉強と現場の「脳の使い方」の違い

もちろん、世の中には試験を難なくパスし、同時に数億円のプロジェクトを回す「超人」もいる。
私の周りにもそういう超人は実際に存在する。彼らは、現場の混沌を捌きながらも、試験用の論理的な思考にスイッチできる、非常にバランスの取れた「ハイブリッドな脳」を持っているのだろう。
しかし、一方で私のようなタイプも確実に存在する。「現場という現実に適応しすぎるあまり、試験脳への切り替えが極端に苦手になってしまった」タイプだ。
現場のPMに求められるのは、不完全な情報の中で「今、最善の決断」を下す動的な判断力だ。30年この世界で生き抜く中で、私の脳は「正解のない問いに、無理やり答えを作り出す」という実戦モードに極限まで最適化されてしまった。
そのOS(基本ソフト)を積んだまま試験会場に行くと、皮肉なことが起きる。 「この状況なら、現場ではこう切り抜けるが……」というPMとしての本能的な経験知が、試験上の「用意された唯一の正解」を導き出す際のノイズ(雑音)になってしまうのだ。
現場で数億円を動かすPMの脳と、試験問題を解く脳。これらは同じ「仕事」というカテゴリーにありながら、実は全く別の筋肉を使っている。
現場の脳は「動的・非定型」だ。
PMの日常は、不完全な情報の中で、刻一刻と変わる状況に対して「今、最善の決断」を下し続けることにある。
正解は一つではなく、調整と妥協、そして泥臭い人間関係の先に、無理やり「正解」を作り上げる作業だ。いわば、地図のないジャングルを鉈(なた)一本で切り拓くような能力である。
一方で、試験の脳は「静的・定型」を求められる。 試験には必ず、あらかじめ用意された「唯一の正解」がある。
そこでは現場で培った「例外への対応力」や「泥臭い調整力」は、むしろノイズ(雑音)になりかねない。「この状況なら、現場ではこう切り抜けるが……」というPMとしての本能的な判断が、試験上の論理的な正解を邪魔してしまうのだ。
私たちは30年かけて、この「現場の脳」を極限まで鍛え上げてしまった。 目の前のプロジェクトを死守するために、脳のOSを「実戦特化型」に最適化してきたのだ。
そのOSで、アカデミックで教科書的な「試験脳」をエミュレートしようとしても、メモリ不足でエラーが起きるのは当然のことかもしれない。
試験に受からないのは、能力が足りないからではない。現場という現実にあまりにも適応しすぎた、プロフェッショナルゆえの「職業病」のようなものなのだ。
4.資格の壁を超えた先にある「本当の自負」

資格という壁を越えた先にある「プロとしての自負」を、私はもう一度定義し直すことにした。
資格とは、いわば「入場許可証」のようなものだ。しかし、私はすでに入場を済ませ、その先の「戦場」で数えきれないほどの修羅場をくぐり抜けてきた。
億単位のプロジェクトを率い、高い利益率を確保しながら、数十名のメンバーをまとめ上げてきた経験。
これらは解答用紙を埋めて手に入るものではない。
顧客との間に築き上げた「あなただから任せた」という血の通った信頼関係こそが、私の真の報酬であり、誰にも奪えない「免状」なのだ。
だからこそ、私は「評価」に対する向き合い方を変えた。
資格というラベルがあれば確かに説明はしやすい。けれど、私はあえて「現場での役割と成果」という、より本質的で、よりシビアな土俵で勝負することを自分に課した。
会社に対しても、その実力で評価を問う覚悟を決めたのだ。
誤解しないでほしいのは、私は資格の価値を否定しているわけではないということだ。
資格は、客観的にスキルを証明する強力なツールだ。しかし、30年この業界にいて気づいたことがある。
資格という「ラベル」は、過去の知識を測るためのものだ。一方で、目の前のトラブルを解決し、数十人の心を動かして数億のプロジェクトを完遂させるのは、今この瞬間の「人間力」だ。
もしあなたが、私と同じように資格の壁に苦しんでいるなら、伝えたい。
「評価の土俵」を、無理に相手のルールに合わせる必要はない。
私は、会社が用意した「資格さえ取れば上げる」という画一的なレースを、ただ漫然と走り続けるのをやめた。
その代わりに、自分が今出している「圧倒的な現場の数字」を、いかに会社にとって不可欠な価値として再定義させるか、という戦略に舵を切った。
具体的には、自分の実績を「属人的な技術」ではなく、「再現性のある組織の利益」として言語化し、会社と交渉する。資格という切符を持たずとも、実力という名の「特急券」で目的地へ向かう方法を模索し始めたのだ。
隣の誰かが資格を手にするのは、その人の勝利だ。けれど、私は私の戦場で、別の勝ち筋を見つける。
そう決めたとき、嫉妬や焦燥感は、自分のキャリアをデザインするための「冷静なエネルギー」へと変わっていった。
もはやこれは、不合格への「言い訳」ではない。 「会社の物差し」で測られることを待つ側から、自分の価値を「市場の物差し」で自ら定義する側へ。 30年かかってようやく、私は自分の足で、自分の人生の土俵に立ち上がったのだ。(だいぶ遅いと思われるかもしれないが)
5.同じように「資格」という言葉に疲れているあなたへ

12月25日。今年もまた、合格発表の日がやってくる。
かつての私なら、画面を開く前から震え、不合格の文字に打ちのめされ、自分を無能だと呪っていただろう。けれど、今年の私は少し違う。
もし合格していれば、それは素直に喜び、新しい武器として受け入れる。 もし不合格なら――。そのときは、これまで通り、あるいはこれまで以上に「数億円を動かす現場」に背中を向けず、泥臭く、誠実に結果を出すだけだ。
私たちが積み上げてきた「30年」や「数億円の責任」は、たった一日の試験結果で消えてなくなるような、ヤワなものではないはずだ。
資格というラベルがあろうとなかろうと、明日も現場は動き、クライアントはあなたを頼りにし、チームはあなたの決定を待っている。
「何を持っているか(資格)」ではなく、「誰を救い、何を成し遂げたか(実績)」を、自分の誇りの中心に置こう。
私も、怖くないと言えば嘘になる。けれど、もう自分を責めるのはやめることにした。 25日の朝、どんな結果が画面に映し出されても、私は新しい靴を履いて、堂々と現場へ向かうつもりだ。
私たちの本当の「合格通知」は、試験会場ではなく、私たちが守り抜いた現場の中にこそあるのだから。

